9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊である御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである。さらに、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(833年‐858年間に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら「九条殿遺誡」や「九条年中行事」を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人(しげおかのかわひと)、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える「讖緯説(しんいせつ)」(周期的予言説)による災異改元が取り入れられて901年(延喜元年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化がさらに進んだ。あわせて、公卿の藤原師輔や漢文学者の三善清行など、陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制がさらに緩むと、堂々と律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。
ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング
10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)親子ならびにその弟子である安倍晴明(あべのせいめい)が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の賀茂光栄(かものみつよし)に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道(すくようどう)的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂氏・安倍氏からのみ陰陽師が輩出されることとなり、安倍晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は賀茂氏と安倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占し、さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満(あしやどうまん)などをはじめとするカリスマ民間陰陽師が多数輩出した。
11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安末期の源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代の混乱や両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した。
武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落 [編集]
12世紀後半の平安時代末期には、院政に際して重用された北面の武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、1192年に武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
3代将軍源実朝暗殺後は、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条一族の傀儡将軍として代々皇族や公家から招かれるようになり、招かれた将軍らは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍源(藤原)頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ存府の鎌倉から吉方であるとされた現在の横浜市鶴見区所在の秋田城介善景の別屋敷にまで移転(陰陽道で言う方違え)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の変の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下のいわゆる東国武士から全国の地域地盤に由来する後に「国人」と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率ないし領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開き南北朝時代が到来すると、京に幕府を持ち北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった。(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある[1]。)
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂氏が通名とするようになった勘解由小路(かでのこうじ)家(居宅が勘解由小路にあったことから室町時代に賀茂氏が名乗るようになったもので、藤原北家日野流や斯波流の勘解由小路家とは異なる)を名乗った賀茂氏の勢力は徐々に凋落し、賀茂(勘解由小路)在方が「暦林問答集」を著すなど活躍したものの、室町時代中期には勘解由小路得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至った。しかし安倍氏だけは上手く立ち回り、安倍有世(安倍晴明から14代の子孫)は、将軍足利義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子安倍有盛から安倍有季・安倍有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍氏を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、16世紀の安倍有宣の代には勘解由小路家(旧賀茂氏)の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、安倍有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門家(あくまで地名から取ったもので、村上源氏の流れをくむ源通親系土御門家とは異なる)を通名とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三家四職も細川氏を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。さらに守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。16世紀前半の天文期には、安倍(土御門)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田荘(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子土御門有春・孫土御門有脩(ありなが)の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂氏傍流の勘解由小路在富を召しだして諸々の勘申を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立する中、太閤豊臣秀吉が養子の関白豊臣秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩が豊臣秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、さらに秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は一旦完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧にともない、陰陽寮ないし官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中世・近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、南北朝期に安倍晴明に仮託して著された「刃辛内伝(ほきないでん)」が、牛頭天王(ごずてんのう)信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。
また、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求するエセ神官・僧侶や穢多・非人集団も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックでうさんくさいイメージが広く定着することとなった。
この頃以降、一部の定まった住居を持たず漂白する民間陰陽師は、他の漂白民と同じく賤視の対象であった。彼らは時に「ハカセ」と呼ばれた